亘平のこと

6    NICUへ
カテの日の夕方、助産士さん(産婦人科のナースはみんな助産士だった)にNICUへ連れて行ってもらった。
亘平はオムツ1枚でバスタオルをかけられて眠っていた。
手足には点滴が刺さり、胸にはモニターがついていて、足には血中酸素濃度を測る電極がついていた。
枕元に酸素濃度のモニターがあり、90%前後で落ち着いていた。
翌日面会に行ったら、抱っこさせてもらえた。
そして山村先生と挨拶して、カテとその後の経過についての説明を聞いた。
入院中はせっせと搾乳してNICUへ面会に行った。
19日に私だけ退院した。
7    2回目のカテ
20日の朝、山村先生から電話があり、亘平の冠動脈が正常ではないようだが、最初のカテでは造影剤をあまりたくさん使えず冠動脈の状態がはっきりとはわからないので、23日にもう一度カテをすると言われた。
その日の夕方、夫と2人で山村先生に会い、詳しい話を聞いた。
当初カテは生後1週間で行うはずだったのが、緊急のBASをするためにカテが早まり、そのため造影剤を十分使えなかったこと、冠動脈の起始異常があり、その形状がはっきりしないと手術方法を決められないと心臓外科の先生から要請があったこと、そして冠動脈の状態によってはジャテン手術(血管スイッチ手術)が不可能で、20年ほど前に行われていた手術法で行うこと、血液型はB型だが、不規則抗体というのがあるので輸血にはO型しか使えないことなどの説明があった。
カテの後、先生から説明があり、冠動脈は「単一冠動脈」で、予想していた異常の中では良い方だったこと、最終判断は心臓外科の先生がするが、おそらくジャテン手術出来るだろうとのことだった。
数日後、NICUに行った時に先生に会い、手術が9月2日でほぼ間違いないと聞いた。
 
8    手術前の説明
9月1日、心臓外科の井本先生から手術の説明があった。
亘平の心臓を止めて人工心肺を用いて手術すること、成功する確率は80〜90%だが、残り10〜20%の場合どのようなことが起こるかという話を延々聞いた。次に麻酔科の先生から、やはり麻酔の際の起こりうる事故の説明があった。
圧倒的にうまく行く可能性のほうが高いのに、私も夫も説明が終わった後は気分が沈んだ。
9    眠れない夜
手術の数日前から、夜寝付けなくなった。
絶対うまくいくと自分に言い聞かせつつも、言葉で言い表せない、そこはかとなく不安な気持ちが頭から離れなかった。
 
手術予定だった9月2日、8時前にNICUへ行くと、「急患が入って心筋梗塞の手術を行うことになりましたので、開始が遅れるか、もしくは日を改めて行うことになります」と言われた。
9時前に手術室から「開始時間はまだわかりませんが、今日行います」と連絡があった。
しかしその後手術の連絡はなく、亘平は朝から絶食状態でお腹をすかせて泣くのでずっと抱っこしていた。
1時過ぎに井本先生がやって来て、「手術した患者さんの様態が落ち着かないので、今日はやめて明日の朝にします」と言われた。
執刀が1日延びて、とりあえず今日は大丈夫だと少しホッとした。
そしてその日の夜もやっぱり眠れなかった。
10    手術
前日と同じく8時前にNICUへ行き、手術室まで一緒に行った。
開始予定が8時半で終了予定が16時半。
長い一日になるので、本や雑誌を持ち込んだ。
10時半ごろ夫の両親が来て、舅はすぐに仕事に行ったが、姑は手術終了まで一緒にいた。
きっと居ても立ってもいられないのと、私たちのことを心配して来てくれたのだろう。
でも、その日の私の気持ちとしては来てほしくなかった。終わるまでそっとしておいてほしかった。手術のことや、亘平の今後のことを考えたくなかったし、触れてほしくなかった。
14時ごろ、ICUへの入室方法の説明を受けた。一緒に説明を受けた久保田さんに「うちの息子も今では1人暮らしできるほど元気になったんだから、大丈夫よ」と励ましてもらった。
先生方が決して言ってくれなかった「大丈夫」という言葉に、涙が出そうになった。
16時前に面談室に呼ばれて、井本先生から手術の説明を受けた。一応成功したとのこと。ホワイトボードに大きな心臓の絵が描いてあって、大血管を入れ替えたこと、亘平の冠動脈は単一冠動脈なんだけど、オマケのような細い血管(メインの冠動脈の1/4ほどの太さ)がもう1本あり、それは必要なさそうだったが一緒に移植したこと、手術は成功したが術後の障害の有無はまだ判らないことなどの説明があった。
 

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Last updated: 2005/2/9


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